シスタークラリスの定跡相談室
それは事務所でのある昼下がりのことでした。
「おかしい……。」
向かいのソファーに座っていた紗南さんが携帯ゲーム機から顔を上げて小さく呟きました。
「どうされましたか?紗南さん」
「ねえクラリスさん。アイドルってさ、歌ったり踊ったりする仕事じゃなかったっけ?あたしこの事務所に入って数か月経ったけど、レッスンといえば将棋だし、仕事といえば将棋番組の聞き手だし。あたしこの事務所に来るまで将棋アイドルなんて聞いたことなかったんだけど」
なるほど、いつも元気に見える紗南さんにも悩みというものがあったのですね。
悩める者を救うのが私の役目です。私は手にしていたコーヒーカップを置き、答えます。
「紗南さん、物事の外見にとらわれてはいけません。将棋によって様々なものが培われます。例えば私の尊敬するある先生は70歳を越えてもなお元気でいらっしゃいます。今すぐにはわからないかもしれませんがー」
「ごめん、聞いた相手が悪かった」
どうやら失敗してしまったようです。
紗南さんはため息をつき、顔を上げ、そのまま私の後ろ――事務所のテレビの置いてある方へ目を向けました。
「ところで、あそこの3人は何をやってるの?」
目をやると、テレビの前の机を囲み、友紀さん、晴さん、ありすさんがなにやらお話をしていらっしゃいます。
「わざわざこの順を選んだんだから絶対になにか後手にも対策があるんだって!」
「そうか?でも何回やっても後手が良くなる順ないだろ?」
「いえ、今まで類似局面は王座戦のあとも何度か指されています。対策はあるはずです」
どうやら熱心に研究をされているようです。机の上には折り畳み式の盤が置いてあり、その上ではプラスチックの駒がミツバチのようにせわしなく動いています。
紗南さんはどうやらいま将棋に乗り気ではないようですし、少し刺激が必要かもしれません。
「紗南さんもいかがですか?いい刺激になるかもしれませんよ?」
紗南さんは苦笑しながら、
「いやああたしはいいかなあ……。あたしは攻略本を読むより自分の力でクリアしたいタイプだしね」
よく分かりませんが遠慮されてしまったようです。
「ところでクラリスさん、もうひとつ聞きたいんだけど」
携帯ゲーム機を机の上へ置き、私の方へ向き直り、言いました。
「初心者って定跡使わないほうが上級者に勝てるんじゃない?」
予想外の質問に私は戸惑います。
「それはどういう意味……、でしょうか?」
紗南さんがそう言う理由がすぐには理解できませんでした。
定跡の力があってこそ序盤に潰されない駒組みをすることができるものなのではないでしょうか?しかし、紗南さんも聡明ですからなにかそう考える根拠があるのでしょう。
「だってさ、上級者は定跡を覚えてるでしょ?ただでさえ実力で敵わないのに上級者と同じ序盤を指してたらどうやっても敵わないんじゃない?」
「なるほど……。」
むしろ定跡のない戦型のほうが上級者も経験が少ないため相手と同じ土俵に立てるということでしょうか。説得力がある話のようにも感じます。
「それに序盤から一手一手考えたほうが棋力あがるんじゃないかな?」
しかし――
「それは違います」
「……なんで?」
「定跡の力を借りることで、プロと同じ序盤を指すことができます。将棋の基礎を学ぶことができますし、序盤、うまくいけば中盤までは上級者と同等に指すことができるわけですから、終盤力だけの勝負に持ち込むことができます」
しばらく紗南さんは小さくなにか呟いていらっしゃいましたが、やがて納得されたようで、うんうんと首を縦に振り、立ち上がって大きく伸びをしました。
「んー、なるほど……。じゃあちゃんと定跡覚えないとなあ……。確か前に友紀さんもありすちゃんに叱られてたし……。」
「紗南ちゃん!それなら今からあたしが教えてあげるよ!ありすちゃんと晴ちゃんで対局はじめちゃったから暇になっちゃってさー」
突然友紀さんが私の後ろから顔を出しました。
いつの間にか友紀さんたちは研究からVS――つまり一対一の対局形式へ移行していたようです。
「そうだね、丁度いいし教えてもらおうかな……。あっ!ごめん友紀さん。あたしそろそろレッスンの時間で行かなきゃいけないんだ!また今度でお願い!次までにトレーナーさんに教えてもらって定跡覚えてくるから!」
そう言うと携帯ゲームも置いたまま急いで事務所から出ていきました。
「えっとじゃあクラリスさん」
「申し訳ありません私もこれから三十分後にはお仕事のためにここを出なければなりません」
「いいもん……。一人で24やっとくもん……。」
友紀さんはプロデューサー様のキャスター付きの椅子に座ったまま部屋の隅の方へ行ってしまいました。
気づくとコーヒーカップの中が空になっています。いつの間になくなったのでしょう。不思議です。誰が飲んだのでしょう。席を立ち、もう一度コーヒーを注いで戻ってきたとき急に友紀さんの声が事務所に響きました。
「あーー!!くそーー!なにこの人ぉ!」
「うるさいぞ友紀」
「静かにできないんですか友紀さん」
友紀さん毎回叫んでいませんか?
「どうしたのですか?」
「いやさー、この対局相手の人、力戦にしてきてさー、まったくなにもできないままに負けちゃったんだよねー」
友紀さんは二段ほどの実力だったと思うのですが、友紀さんでも力戦に負けてしまうことがあるのですね。
紗南さんが言っていたこともあながち間違いでもないのかもしれません。
意識したわけではないのですが、なんの気なしにちらりとお相手の方のハンドルネームを見てみると―――
34437と書いてありました。
「…………。」
『あたしは攻略本を読むより自分の力でクリアしたいタイプだしね』
「……。ふふっ。」
「どうしたの?クラリスさん」
「いえ、このようなめぐりあわせがあるとは思いませんでしたから」
「え?どういう意味?」
「ではまた次回、迷える子羊さんの来訪をお待ちしております。ごきげんよう」
「え?え?」
ありすと友紀の回り道
「あぁもうイヤだぁあああ!あと何人いるのさぁああ!」
某週刊誌を引き裂きながらあたしは事務所のソファーで叫んだ。静まり返った事務所にあたしの声が響く。
「うるさいですよ友紀さん、どうしたんですかいきなり」
「あれ?ありすちゃん、なんでこの時間にいるの?ありすちゃんもサボり-?」
レッスンももうあと20分で始まるし、誰もいないと思ってたんだけど・・・。
あと、あたしが叫んでいた理由は察して欲しい。
「学校の掃除当番で遅れていま来たところです。レッスンをサボろうとしている友紀さんと一緒にしないでください。あと、橘です」
掃除当番かぁ、久々に聞いたなぁその単語。そうかまだ小学生なんだなぁ。
「どうしてレッスンをサボろうとしているんですか?」
「今日レッスンで何をやる予定か知ってる?」
「横歩取り2三銀型の飛車ぶつけにおける端歩の意味、でしたか?」
「そうだよ!そんなコアなの知らないよ!第一あたし横歩取り指さないよ」
「定跡を知らないといつまで経っても上達しませんよ?」
完全に論破って感じである。さすがクールタチバナ。
「とにかくあたしは行かないよ!あんなの複雑すぎるし、横歩取り自体定跡が多すぎるんだもん」
ありすちゃんはしばらく呆れたようにしていたけど、急になにかを思い出したかのような素振りを見せて、こう言った。
「・・・複雑ですか、それじゃあひとつゲームをしませんか?」
どうしたんだろう?
「ゲームってそのタブレットに入ってるアプリゲーム?今ならグラブルとモバマスを両方やるのがオススメだよ」
「・・・。」
一層呆れられてしまった。冗談のつもりだったのに。
「とにかく、アプリゲームじゃありません。使うのは将棋盤と駒です」
「え?回り将棋?それとも山崩し?」
「いえ、私が作ったゲームです」
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ありすちゃんは盤をひろげると、駒を いつもとは違った形に並べた。
変な形だなあ。王様が露出してるし歩は動けないし。
「ありすちゃん、これからどうやって遊ぶの?ここから王様を取りにいけなんて言わないよね?」
「ええ。そんなことは言いません。」
「よかったぁ」
「歩を取ったら勝ちです」
「え?」
ここから歩を?他の駒に守られていて、穴熊とまでは言わないけれど、とても遠そうに見える。
「ありすちゃん、冗談だよね?」
「いえ、冗談ではないですよ。大丈夫です。友紀さんが思っているより簡単に詰みます。たとえばこのように・・・、
飛車で歩の両取りをした場合、受けがないので勝ちになります」
「歩を取るために大駒を使うってなんか新しいね」
そう簡単にいくのかなぁとも思ったけど、このゲームを作ったというありすちゃんが言うのだから多分そんなに時間はかからないのだろう。
「王様を取られても負けではありません。あと、他のルールは将棋と同じです」
「二歩とかは?」
「歩を取ったら勝ちなのに二歩は出来ないでしょう」
そうでした。
まあ今はテレビをつけても見たくないようなニュースしかやっていないし、少し暇つぶしと思ってやってみよう。
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「お願いします」
▲1二香成△同歩▲9二香成△同歩
うーん、とりあえず何も考えずに取れる駒を取ってみたけど ・・・、意外と悪くない手だったんじゃないかな?
ここで飛車か金・・・、あと、玉でもいいのか。横と後ろに動ける駒を1一か9一に打ち込めば勝ちになる。問題はどうやってそれを手に入れるかだね・・・。
多分だけど・・・、このゲームは金や銀を動かして陣形を作っていくゲームじゃない、と思う。相手の歩は一番奥にいるし、ヘタに駒を動かすと相手の飛車や角の利きが自分の歩に当たってくる。
要するに大駒や桂香だけで手を作る必要があるってことだね。
「・・・友紀さん?」
「ごめんごめん。もうちょっと考えさせて」
・・・まあ逆に考えれば、飛車を切って金を取るだけでいいってことだよね。
飛車で金を狙ったとき、相手の持ち駒の香を合い駒にされるのは困るから、詰めろで迫って・・・、・・・あれ?これって?
何度か読み直してみたけど、どうやら変化の余地は多分ありま温泉・・・、ないみたい。
よし、これでいこう。
あたしに勝負を挑んだことを後悔させてやろう!
「ごめんね-、いま指すよー」
「心なしか顔がにやけていませんか?」
▲5五香△5三香▲4八飛△4五香▲4四香
ありすちゃんは横に動ける駒を取られたら負けだから、▲5五香に△5三香は必然の一手。
そして▲4八飛に△4三銀とすると▲同角成△同玉▲同飛で必至だから、角の利きを使って△4五香と受けるしかない。
そこでその裏から△4四香と打てば飛車が香車になったけど、同じ手順で必至!こっちの陣形には穴がないから絶対に詰まない!
ありすちゃんは少し考えて、あたしの考えていた通りの手を指した。
△4三銀▲同角成△同玉▲同香成
※先手の持ち駒には玉があります。心の目で見て下さい。
これでありすちゃんの歩に必至がかかった。
・・・冷静になってみると何を言ってるのか分からないなぁ、『歩に必至をかける』って。
「どう?これで手がないでしょ!どお?投了?」
「・・・いえ、投げません」
ありすちゃんは手を伸ばした。
△8八飛成。
えっ?飛車と桂馬の交換?思い出王手、みたいなもの?ありすちゃんは思い出王手とかするタイプじゃないと思ってたんだけど・・・。
▲同歩
「友紀さんはこのゲームについてどう思いましたか?」
いきなり質問されてちょっと戸惑う。
「うーん、普通の将棋より簡単で、短い時間で遊べるし、初心者の人もやりやすい面白いゲームなんじゃないかな」
それを聞いたありすちゃんは少し残念そうな顔をした。
「・・・。このゲームを楽しんでいただけたことは嬉しいのですが・・・、」
△9六桂▲8七歩
「このゲームの本質はまだ分かっていませんね」
△8八桂成
7九、8七、9九の3つの歩を助ける手段がない。
「・・・負けました。」
あたしの負けだった。
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「ねえありすちゃん、このゲームの本質ってなに?」
さっきありすちゃんが言っていたことが気になった。・・・ゲームの本質?
「・・・そうですね、友紀さん、今度は私が先手でもう一回やりましょう」
「え?今から?」
「ええ、そんなに時間はかかりませんから」
何故ありすちゃんはそんなことを言っているのだろう。
「お願いします」
▲1二香成
挨拶をするなり、ありすちゃんはノータイムで香車を成ってきた。これを角で取るとさっきと同じように飛車で桂を取られて負ける。
△同歩
▲9二香成△同歩▲2三飛車成
相手の角が利いているので、銀じゃ取れない。△同飛の一手。
▲5六角
△8三香・・・、と打とうとしたけど、それじゃあ飛車がタダだから、△8三飛と打った。そして気づいた。
▲2三角成△同飛▲1一飛
詰みだった。
初手からの一分の隙もない詰め将棋だった。
「どう思いました?」
「率直な感想を言っていいの?」
「お願いします」
「えっと・・・、言葉を選ばずに言うと、クソゲーっていうのかな・・・?」
「そうです。先手後手が決まった時点で勝ち負けが決まっているゲームはゲームじゃありません。それに、今回は派手な詰まし方をやりましたが、これ以外にも先手が勝つ手順があるんです」
勝ち負けを決めるだけならジャンケンでいい──って言ったのは誰だったっけ?思い出せないや。
このゲームはありすちゃんが作ったらしい。それがゲームとして成り立たなかったことが悔しいんだろうなぁ。
「友紀さんは・・・、複雑な定跡が嫌だと言っていましたけど・・・、簡単すぎるとゲームがゲームじゃなくなってしまうんです。破綻してなくて、そして奥が深いからこそ複雑な定跡があって、面白さがあるんです。だから将棋をする以上・・・、複雑だからといって逃げるのは・・・、ダメです」
一途で真面目なありすちゃんにはあたしがサボっているのが将棋を軽く見ているようにも見えたのかもしれない。もちろんあたしにそんな気はないんだけど。
はぁ、小学生に叱られるなんて大人らしくないなぁ、あたし。
「ところでありすちゃん」
「なんですか?あと、橘です」
「レッスンとっくに始まってる時間なんだけど・・・。」
「え?あ!ちょっと!?友紀さんのせいですよ!どうしよう・・・、トレーナーさんに怒られる・・・。あわわ・・・。」
なんだ、やっぱりちょっとは子どもらしいところもあるんだね。
仕方ない。今回くらいは大人なあたしが代わりに怒られてやろう。
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「ちなみに△4三銀とした局面、▲同角成△同玉に▲3二銀と打てば友紀さんの勝ちでしたよ」
「うるさいやい」